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故・畑中純先生を偲ぶ(1/8)
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アジアンビート編集部が気になったニュースをピックアップしてお届けする「デイリートピックス」。毎週土曜日は、「デイリートピックス週末版」として、現場でたたかうアジアンビートだから語れる『アジアの若者文化』の真の姿を、気になる話題と絡めて取り上げていきます。今回は、急遽予定を変更して、3日前に逝去された畑中純先生の追悼トピックスとしてお送りします。
2012年6月13日
アジアンビートでもたいへんお世話になった漫画家 畑中純先生が亡くなられた。62歳だった。
畑中純先生は、福岡県北九州市のご出身で1977年に『月夜』でデビュー。代表作『まんだら屋の良太』は人間描写の確かさを評価され、1981年に日本漫画家協会賞を受賞。2007年からは東京工芸大学芸術学部の教授として後進の指導にあたられていた。
私が畑中純先生と最初にお会いしたのは、2007年の春。福岡県北九州市で初開催する“日韓まんがフェスティバル”の打ち合わせに、同フェスティバルのプロデューサー大野光司氏とともに東京のご自宅を訪問した。夜遅い訪問だったにもかかわらず、お疲れの顔色ひとつされずに、温かいおもてなしをしていただいた。当時は、ちょうど、のちの国営マンガ喫茶などと批判もあったメディア芸術総合センター(仮)の構想も動き始めようとした時期で、世間での批判とは裏腹に、漫画家の抱える悩みもお聞きした。漫画家は脚本、作画、台詞と一人で何役もこなさなければならない。才能中の才能を持ってして成り立つ職業なのだと。
畑中純先生は、福岡県北九州市のご出身で1977年に『月夜』でデビュー。代表作『まんだら屋の良太』は人間描写の確かさを評価され、1981年に日本漫画家協会賞を受賞。2007年からは東京工芸大学芸術学部の教授として後進の指導にあたられていた。
私が畑中純先生と最初にお会いしたのは、2007年の春。福岡県北九州市で初開催する“日韓まんがフェスティバル”の打ち合わせに、同フェスティバルのプロデューサー大野光司氏とともに東京のご自宅を訪問した。夜遅い訪問だったにもかかわらず、お疲れの顔色ひとつされずに、温かいおもてなしをしていただいた。当時は、ちょうど、のちの国営マンガ喫茶などと批判もあったメディア芸術総合センター(仮)の構想も動き始めようとした時期で、世間での批判とは裏腹に、漫画家の抱える悩みもお聞きした。漫画家は脚本、作画、台詞と一人で何役もこなさなければならない。才能中の才能を持ってして成り立つ職業なのだと。
膨大と積まれていく資料や原画の数々。しかし、代々継いでいくものとは異なった一代限りである場合が多く、もし死んでしまうと、家族をはじめ残された者にとっては紙切れでしかないこともあるのだと。そのために里中満智子先生が先頭に立って呼びかけられているというお話もうかがった。そういうこともあって、トークショーでは、里中満智子先生、ちばてつや先生、そして、畑中純先生をお迎えして、若き日韓の青年を前に語っていただいた。その中で、畑中純先生が強調されていたのが、「漫画は人を描くというよりは関係性を描く、そのことで社会を捉えるということ、それをやらなければ作品というのは奥行きも広がりもでない」と。
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