「鼓動」2010年5月24日
魔王

「お父さん、お父さん!
魔王のささやきが聞こえないの?」
シューベルトの歌曲『魔王』。
暗い森の中を駆ける父と子。恐怖に脅える息子の声を自分の声のように聴いた。後に聴いたフィッシャー・ディースカウのバリトンよりも、はじめて聴いたその日本語の歌詞の劇的な表現は、当時中学生の心を大きく揺さぶった。
「子どもは夜の森を抜けると息絶えている」。
ゲーテの詩は恐ろしさに満ちていた。
『魔王』を思い出したのは偶然だ。開高健の釣りエッセイ『フィッシュ・オン』を眺めていたら、そこにドイツ・バイエルンでの釣果として、一匹の鱒の写真が載っていた。しかもその鱒は、シューベルトの『鱒』に歌われた、あの鱒らしいというのだ。鱒の茶褐色の体側には青白い環の中に鮮やかな紅が、ちょうど水玉模様のように並んでいる。惚れ惚れするほどの美しい赤い水玉プリントのデザインだ。
なのに、シューベルトの『鱒』の旋律はどうしても思い出せない。いったいどんなメロディだったか・・・。代わりに『魔王』の旋律が勝手に浮かんできたというわけだ。
「お父さん、お父さん!
魔王が僕をつかんでくるよ!
魔王が僕を苦しめる!」
シューベルトは、『魔王』を18歳のときに作曲している。
が、無名だった彼を大手の出版社は相手にしなかった。そのため、有志によって100部のみが自費出版されたと言われている。(IK)