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第59回 マイ文化外交①サウジアラビアの衝撃から、パリ発「世界カワイイ革命」へ
約1年にわたって続けてきた「J Pop Culture 見聞録」だが、次回60回の節目を持って終了、翌週からは装いも新たに新連載「櫻井孝昌のJAPAN! JAPAN! JAPAN!」を開始する。これまで以上に世界に発信する「日本」に注目して執筆していくので、よろしくお願いいたします。
さて、そんな節目となる今週と来週は、2回にわたって2007年12月から始まった私の文化外交活動でのターニングポイントを、改めて振り返り、検証したい。ある程度の時間をへたからこそ、そのときの状況の意味がわかることも多いからだ。
まず、最初のターニングポイントは、私が「アニメ文化外交」を推進しようと心に決めた、2008年3月、3カ国め5都市目の訪問地であるサウジアラビアの首都リヤドでのことだった。リヤドで開催された中東の大きなブックフェアのゲスト国に日本が選ばれ、そこで講演する講師何人かの一人として私は招待された。
ポップカルチャーについて語るのは、私一人。サウジアラビアでアニメについての講演会が実施されること自体が初めてのことだった。日本とは常識がまるで違う場所での初ものづくし。期待半分不安半分というところだったが、不安はまったくの杞憂だった。
講演会の途中、男性と女性が同じ部屋で講演を聴けない状況下、スクリーンで講演を観ている隣りの女性の部屋から、『NARUTO』『鋼の錬金術師』といったアニメのタイトルをあげるたびに壁越しに聞こえてくる悲鳴を私は生涯忘れることがないだろう(天井近くに、空間がある、銭湯などの男女の仕切りを想像してもらえばよいだろう)。
「この講演が開かれたこと自体が画期的だ」
終演後、何人もの若者に御礼を言われた。当時はただビックリするのみだったが、いまは彼らの気持がよくわかる。彼らは心の底から日本を待ってくれていたのだ。
さて、そんな節目となる今週と来週は、2回にわたって2007年12月から始まった私の文化外交活動でのターニングポイントを、改めて振り返り、検証したい。ある程度の時間をへたからこそ、そのときの状況の意味がわかることも多いからだ。
まず、最初のターニングポイントは、私が「アニメ文化外交」を推進しようと心に決めた、2008年3月、3カ国め5都市目の訪問地であるサウジアラビアの首都リヤドでのことだった。リヤドで開催された中東の大きなブックフェアのゲスト国に日本が選ばれ、そこで講演する講師何人かの一人として私は招待された。
ポップカルチャーについて語るのは、私一人。サウジアラビアでアニメについての講演会が実施されること自体が初めてのことだった。日本とは常識がまるで違う場所での初ものづくし。期待半分不安半分というところだったが、不安はまったくの杞憂だった。
講演会の途中、男性と女性が同じ部屋で講演を聴けない状況下、スクリーンで講演を観ている隣りの女性の部屋から、『NARUTO』『鋼の錬金術師』といったアニメのタイトルをあげるたびに壁越しに聞こえてくる悲鳴を私は生涯忘れることがないだろう(天井近くに、空間がある、銭湯などの男女の仕切りを想像してもらえばよいだろう)。
「この講演が開かれたこと自体が画期的だ」
終演後、何人もの若者に御礼を言われた。当時はただビックリするのみだったが、いまは彼らの気持がよくわかる。彼らは心の底から日本を待ってくれていたのだ。

▲リヤドのブックフェアでの講演がアニメ文化外交へとつながっていった

世界の多くの若者にとって、日本はネットの中に存在する国だ。21世紀、ブロードバンドの普及が、アニメを中心とする日本のエンターテイメントを世界中津々浦々まで広めたわけだが、一部の国や都市をのぞき、彼らはそこに関わっている日本人をネット以外で一度も観たことがない。そんな彼らは来る日も来る日もネットを観ながら、リアルな現場で日本と触れ合うチャンスを待ってくれているのだ。
年齢的に私の先輩にあたる世代のみなさんも、たとえば社会現象として日本に旋風を巻き起こした、ビートルズ来日を思い出してほしい。それは、日本の若者がビートルズという存在を待っていたからである。
いま、世界と日本をつなぐ絆は、そのときの状況と全く変わらない。ネットいう存在が、日本と世界を強く結び付けていったのである。日本人の知らない間に。
日本を待ってくれていた若者同士が、部屋から出て、集まり、世界の未来のために何かが始まるのであれば、その最初の一歩になろう。私は、リヤドでそう決心したのだ。
これが私のアニメ文化外交のスタートである(拙著『アニメ文化外交』(ちくま新書)にもこのあたりのことは詳しい)。
その後、4年あまり、アニメ文化外交をめぐる状況もよい意味で大きく変わった。その後の私と中東の関係はこちらをご覧いたただきたい。
第55回 中東ヨルダンの若者も日本のアニメやアイドルが大好きだった
http://asianbeat.com/ja/jpopculture/jpc055.html
年齢的に私の先輩にあたる世代のみなさんも、たとえば社会現象として日本に旋風を巻き起こした、ビートルズ来日を思い出してほしい。それは、日本の若者がビートルズという存在を待っていたからである。
いま、世界と日本をつなぐ絆は、そのときの状況と全く変わらない。ネットいう存在が、日本と世界を強く結び付けていったのである。日本人の知らない間に。
日本を待ってくれていた若者同士が、部屋から出て、集まり、世界の未来のために何かが始まるのであれば、その最初の一歩になろう。私は、リヤドでそう決心したのだ。
これが私のアニメ文化外交のスタートである(拙著『アニメ文化外交』(ちくま新書)にもこのあたりのことは詳しい)。
その後、4年あまり、アニメ文化外交をめぐる状況もよい意味で大きく変わった。その後の私と中東の関係はこちらをご覧いたただきたい。
第55回 中東ヨルダンの若者も日本のアニメやアイドルが大好きだった
http://asianbeat.com/ja/jpopculture/jpc055.html
文化外交二度目のターニングポイントは、サウジアラビア訪問から4カ月後、パリでやってきた。
パリの「ジャパン・エキスポ」がすごいことになっている。その噂は耳にしていたが、現地の状況は、噂をはるかに上回るものだった。
まず、日本では観たこともない数のたくさんのコスプレイヤーには度肝を抜いた。そして、なによりも驚いたのは、ゴスロリや制服といった、明らかに日本ファッションを意識したたくさんの少女たちだった。
「カワイイね」
日本語で話しかけると、みなものすごく喜んでくれた。
パリの「ジャパン・エキスポ」がすごいことになっている。その噂は耳にしていたが、現地の状況は、噂をはるかに上回るものだった。
まず、日本では観たこともない数のたくさんのコスプレイヤーには度肝を抜いた。そして、なによりも驚いたのは、ゴスロリや制服といった、明らかに日本ファッションを意識したたくさんの少女たちだった。
「カワイイね」
日本語で話しかけると、みなものすごく喜んでくれた。

▲「世界カワイイ革命」を感じた2008年パリ・ジャパンエキスポ
カワイイという日本語が世界語化していることを初めて実感した瞬間だった。
「日本人になりたい」
そう話す少女たちにも出会った。日本がパリっこに真剣に憧れられている。それはアメリカやパリの文化で育ってきた私にとっては衝撃以外のなにものでもなかった。
いつから世界はこんなことになっていたのだろう。
いまでこそ、パリのジャパン・エキスポには多数の日本人が参加し、出展するようになったが、2008年当時はその数もまだまばらだった。「世界カワイイ革命」とでもいえる出来事が日本を中心に起きていることに気付いたのが、フランス革命の地パリであったのもまた運命的だった。
このときのパリの衝撃は、翌年の外務省とのプロジェクト「カワイイ大使」につながっていく(拙著『世界カワイイ革命』(PHP新書)にもこのあたりのことは詳しい)。
翌2009年はカワイイ大使と世界を周り続けた1年だった。そんな話はまた次週。
「日本人になりたい」
そう話す少女たちにも出会った。日本がパリっこに真剣に憧れられている。それはアメリカやパリの文化で育ってきた私にとっては衝撃以外のなにものでもなかった。
いつから世界はこんなことになっていたのだろう。
いまでこそ、パリのジャパン・エキスポには多数の日本人が参加し、出展するようになったが、2008年当時はその数もまだまばらだった。「世界カワイイ革命」とでもいえる出来事が日本を中心に起きていることに気付いたのが、フランス革命の地パリであったのもまた運命的だった。
このときのパリの衝撃は、翌年の外務省とのプロジェクト「カワイイ大使」につながっていく(拙著『世界カワイイ革命』(PHP新書)にもこのあたりのことは詳しい)。
翌2009年はカワイイ大使と世界を周り続けた1年だった。そんな話はまた次週。




執筆者:櫻井孝昌氏プロフィール

ツイッターでも海外情報発信中 http://twitter.com/sakuraitakamasa/
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※次回「J POP CULTURE見聞録」最終回は、2009年カワイイ大使との世界行脚から、中国文化外交のスタート、そしてアイドルとの出会いへとマイ文化外交を振り返る。
※次回「J POP CULTURE見聞録」最終回は、2009年カワイイ大使との世界行脚から、中国文化外交のスタート、そしてアイドルとの出会いへとマイ文化外交を振り返る。