「鼓動」2010年3月22日
福岡が生んだ不世出の歌姫、萌えの原点、松田聖子 Part4

もう寝ても覚めても聖子ちゃんのことを考えていると、どこかに聖子ちゃんいないかなとか、さっさと聖子ちゃん連れてこいよ!とか独り言叫んで、ちょっと言い方が乱暴だったなと反省したり・・・・・病的だな(冗談ですってば)。
いや確かに、あと少しで50にもなろうとする歳になって聖子病にかかるとは。でも仕事への影響などないですよ、至って順調。家庭の方はちょっとね、なんと言うか若干支障が出てきたかなと・・・。実は、昨年暮れに急にこんな風になっちゃって、早速聖子ちゃんのCD5枚組みを買ってきて、ピンクのパッケージをウヒウヒ言いながら開けていると、中学一年の娘が“ぽかーん”状態だったし、確かに嫁が寝ると聖子ちゃんタイムの始まりではあるし・・・・・。
言い訳ではないけど、僕は福岡県人として聖子ちゃんを愛でる義務があるというものだ!聖子ちゃんは福岡県久留米市の出身、高校時代に福岡市民会館であったコンテストで優勝して歌手への道が開けたというのだから、おいおい、こりゃあ天神ですれ違ったかもしれんぞと、当時の西鉄福岡駅あたりの情景を必死に思い出そうとしたりする(笑)。
冗談はさておき、聖子ちゃんのヒット曲って福岡県人率が高いってことが言いたい。大ヒット曲、チェリーブラッサム、夏の扉、白いパラソル、野ばらのエチュードなどの作曲はチューリップの財津和夫氏だし、青い珊瑚礁以降、編曲の多くは、やはり福岡出身の故大村雅朗氏が手がけている。大村氏は「SWEET MEMORIES」や、知る人ぞ知る萌え曲「真冬の恋人たち」の作曲者でもある。ほかに「雨のリゾート」の杉真理氏、「ハートをRock」の甲斐よしひろ氏など、聖子ちゃんの周りには福岡出身者が集結していた。
スタジオでは筑後弁や博多弁が公用語だったはずである。70年代のフォーク全盛期に貢献した福岡人のことはよく語られてきたが、80年代の福岡県出身者による松田聖子プロジェクト群像も改めて綴られるべきだと思う。当時CBSソニーの信濃町スタジオでは、福岡県出身の天才たちが、「やっぱこうやろうもん」、「こげん歌わな」、とかなんとか議論しながら名曲群を作り出した(と想像)。
“福岡県人は聖子ちゃんをもっと誇れよ!”というのがこの連続コラムの結論といやあ結論かな。あるいは、“常に新時代の文化の旗手をプロデュースしてきた福岡、アジアンビートに大きな期待”、とまとめるか(笑)。
最後に思い出した。先日、台湾の高校生が60人、福岡県に研修旅行に来ていて、お別れパーティで僕が挨拶をする機会があったんです。聖子病闘病中の身、図らずも聖子ちゃんの話になってしまって、「みなさ~ん、台湾にもかつての日本のアイドル松田聖子のような人いますね! 僕はこの前、プロモーションビデオを見て大ファンになりましたよ、王心凌(ワン・シンンリン)、シンディー・ワンさんです。可愛いですね!」と言ったところ、会場内がシ~ン・・・・・。
確かに、王心凌ちゃんはとってもキュートでフリフリブリブリで台湾の聖子ちゃんと呼ばれることもあるとか。PVのパフォーマンスに僕は久しぶりにキューンと来るものがあって(笑)。
でもあれなんですってね、王心凌はどっちかというとローティーンやオタクの方々に人気で、いい年してファンだというとちょっと奇異な目でみられることがあるとかないとか。
台湾の高校生たち、「あのおっさんって一体・・・・・」って思ったかなあ。(耽介)
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