「鼓動」2010年9月3日
それぞれのトポス

「私の家内は、文学について、文学的な興味などを示したことがない」
そんな妻が、あるとき暇つぶしに読んだ島崎藤村の「家」にいたく感銘を受けた。が、これも彼女が信州生まれで信州の思い出が胸にわいたためである。彼女は、毎日人通りのまれな一里余りの道を歩いて小学校に通っていた。その中途に栗の大木があって、そこまで来ると、あと半分といつも思った。
それがやたらと見たくなり、長いことためらった末、我慢できずにその由を小林に語る。小林が即座に賛成すると、親類への土産をしこたま買い込み大喜びで出かけた。数日後、帰ってきて「やっぱり、ちゃんと生えていた」と上機嫌であった。
話の中身はそれだけである。小林は文末を「さて、私の栗の樹は何処にあるのか」と結んでいる。
栗の樹は、哲学にいう、いわゆる「トポス」なのであろうか。トポスというのはギリシア語で「場所」を意味する。「場所」といっても単なる地点ではなく、ある人にとって特に重みを持つ場所で、たとえば、故郷とか昔住んでいた家とか、学校とか、あるいは人によっては病院とか、そんなイメージが浮かんでくる。いずれにしろ個々人のアイデンティティに影響を与えた意味のある場所をトポスというらしいが、その意味において「栗の樹」もトポスであるのだろう。だとすれば、トポスを見出し、それとの関連で自らを定位できるとき、自らの独自性や固有性を認識し、心休まるものを感じることができるのだろう。
小林の「私の栗の樹は何処にあるのか」という問いは案外普遍的な問いでもある。(IK)