「鼓動」2010年10月5日
そば街道を行く 『隠れ家』

アルカリ単純泉のつるつるとしたお湯だ。その「ななのゆ」の入り口付近に、「そば夢屋」という看板が立っている。
標識に従って川沿いを車で上り、もはや頂上あたりというところに民家があって、それが「夢屋」だった。
駐車場らしきものはなく、造りも全然店らしくなかった。なんだか怪しげでさえある。
民家風の玄関を入ると、土間の上がり框を隔てた部屋には大きな囲炉裏があった。
店舗というより日々の暮らしの匂いが感じられる部屋だ。さらにその部屋の向こうには座敷があった。解き放たれた縁側から気持ちのよい風が座敷を渡っているようだった。
天井の高さや梁の太さから見て戦前建てられた農家なのだろう。縁側には楽譜の載った譜面台が無造作に置かれ、ギターが二本かけてあった。
店の奥さんに呼ばれて、縁先に現れたのは、スウェットスーツを着たよく日に焼けた精悍な感じの主人だった。五十半ばだろうか、無精ひげを生やし、白いものが混じった髪を後ろで結わえていた。手には栗の入ったビニール袋とトングを携えていた。
「サーフィンが好きでして」
焼けた顔は海での日焼けのようだった。自由な時間が欲しくて数年前ここに移り住んだらしい。脱サラして本格的にそばの味を追い求める人のようでもなかった。
かといって、そばはあくまで生活の手段と割り切っている風でもなかった。
主人にはそばに対する力みも特段のこだわりもないかのようだった
が、出てきたそばは、つなぎを一切使用していない十割そばだった。
ブツブツと切れそうな麺をつゆにつけてすすると、粗い肌理の舌触り。まぎれもないそばの感触だ。昆布だしのつゆも濃すぎず、そばを殺していなかった。
山間の七山だが、唐津湾までは意外と近い。
厨房から携帯電話で、海上の風の向きを確かめる主人の声が聞こえた。
「エ?北西の風だって・・・」
今日もこれから海に出るのだろうか。
不思議な時間軸が紡ぎだす隠れ家のようなそばどころ「夢屋」。
どうやら「夢」というのは客のものではなく、むしろこの店の主人のもののような気がした。(HR)