「鼓動」2010年10月7日
那須与一

『平家物語』で一番有名な個所は、「扇の的」あたりかもしれない。岩波ワイド判の『平家物語』第四巻を拾い読みする。
屋島の合戦で、那須与一は沖の扇の的を射よと命ぜられる。与一は散々迷い、神仏に加護を願い、ついに放った鏑矢は見事扇の要を射切る。「沖には平家、船端を叩いて感じたり。陸(くが)には源氏、えびらを叩いてどよめきけり。」えびらとは矢を入れて右腰につける武具である。
よく知られた「扇の的」のあっぱれな話には、そのあとがある。
源平双方で、与一の妙技に感嘆する中で、平家の船では、扇を立てた竿の下から黒皮縅(おどし)の鎧を着た老武者が、長刀を杖に立ち上がり、那須与一の誉れを讃えて舞い始める。
これを見た源氏の方では、義経の側近の伊勢三郎が、「ご命令だぞ、あれもやってしまえ」と与一に言うと、与一は、今度は迷うことなく命令に従い、舞っている男を尖り矢のひと矢で船底へ射倒してしまう。
「平家の方には静まり返って音もせず、源氏の方には、又えびらを叩いてどよめきたり」。源氏では、やったあ、と言う者もいれば、情けないやり方だという者もあった。と段は終わる。
組織の長の冷徹な命令とはいえ、与一の行動は、非情である。『平家物語』の面白さは、現代小説よりもはるかに劇的でリアリティに富む。とはいえ、与一の立場を思うと、命令とは何か、とふと考えたくなる話である。(IK)