「鼓動」2010年10月9日
『ある夜、クラブで』

ある日、出張先での遅くなった仕事を終えたシモンは、夕食の後ジャズクラブに案内される。パリに帰る最終列車は、10時50分だった。まだ1時間ほど時間があった。
これまで断ってきたアルコールを口にし、若いピアノ・トリオに耳を傾けるうちに、かつての自分の演奏スタイルとそっくりのピアノ演奏を目の当たりにする。
そこにいるのはまるで自分のコピーのような気がした。
彼はこの10年間ピアノから遠ざかっていた。ジャズが流れているような場所すら避けるようにしていた。聴けば勝手に体が動くような気がした。
ステージで輝いているあの鍵盤に、一瞬でも触りたいと誘惑がシモンを襲う。
ジャズメンたちの演奏は早めの休憩に入った。時間を気にしながら、シモンはステージに上がり、震える手を鍵盤にかざした。ためしに、二つ三つ音を弾いてみると、出てきた音はのどが詰まったような音だった。緊張、恐怖、身震いのせいだった。
若い演奏家たちがライブの最初に演奏した「レター・トゥ・エヴァン」を自分でも弾いてみたかった。シモンは真ん中あたりの限られた数の鍵盤しか用いずに、弾き始めた。
クラブの客は耳を澄ませていた。
クリスチャン・ガイイの『ある夜、クラブで』(野崎歓訳 集英社)。
そのイントロは抗しがたいジャズの魅力に満ち溢れている。読者はたちまちのうちに魅惑の世界に引き込まれる。
作家ガイイはサックス奏者としてプロを目指した活動経歴を持つ。
邦訳の装丁デザインは、ビル・エヴァンスの名盤『ワルツ・フォー・デビイ』のジャケット写真を素材にしている。(J)