「鼓動」2010年5月18日
音楽が生まれる瞬間

小説の中、旅の途上で、モーツァルトは、ある貴族の庭園に迷い込んでしまう。そこで噴泉の快い水音に聞き惚れ、目はオレンジの木をじっと見つめて、少年時代のナポリ湾の情景を思い浮かべ、思わず放心状態になる。
ぼんやりとオレンジをつかむと、果実は枝から離れ、彼の手に残った。
「彼はかぐわしい果実をたえず鼻の下でぐるぐるまわしながら、ある旋律の出だしや中のあたりを聞きとれぬくらいに口ずさむうちに、ついに無意識にエナメル塗りのケースを上衣の脇ポケットから取り出し、その中から銀の柄のついた小刀を取って、黄色い球体を上から下へゆっくりと二つに断ち切った」
立ち昇る瑞々しい香り、かすかな渇きがモーツァルトを捉え、放心の作曲家に白熱の興奮をもたらす。
「彼は数分の間、その割られた両面をみつめ、また静かに合わせ、離してはまた合わせた」
ほんの一息のメロディから、モーツァルトの音楽が生まれる瞬間。その秘密に迫った描写に思わず息を呑む。(IK)