「鼓動」2010年5月19日
小野理子訳『桜の園』

チェーホフのこの作品を、神戸大学を退官された小野理子(みちこ)さんが訳し、岩波文庫から刊行されたのは、1998年だった。このところの翻訳物の新訳が相次いで出版される少し前の、いわば新訳ブームの先駆けとも言える。
あまたの訳がある中で、小野訳は科白のやりとりの面白さとリズムのある日本語で、秀逸だった。加えて、巻尾の解説は、これまで曖昧だった、この「喜劇」の輪郭を明確にし、読む者に、目から鱗が落ちるかのように、視野がぱっと明るくなった気分にさせてくれた。
とりわけ、実業家(大商人)のロパーヒンの言動の底に、ラネーフスカヤへの思いを読み解き、あるいは、経済感覚の完全に欠如したラネーフスカヤに、自分の愛に未来はないことを承知の上で、病気で苦しんでいる男のもとへ再び向かうとする、気の弱い、おめでたい女を見ている。
この見事な訳に触れ、今度は小野訳『ワーニュおじさん』(2001年)を読んで見たくなる人もきっといるだろう。(IK)