「鼓動」2010年11月20日
時雨

平安中期、藤原氏の全盛時代を現出させた摂政藤原道長(966-1027)はあるとき嵯峨野に遊びに行き、時雨に遭う。雨宿りしたときの歌に次の歌がある。
誰ぞこの昔をこふるわが宿に時雨ふらする空の旅人 藤原道長
時の権勢家は歌の上手だった。それにしても「空の旅人」とは、なんとゆかしい。権謀術数を巡らす政治の世界にあった人物だが、この一語ゆえに道長への親しさを感じる。
古くから日本では、降る雨を細やかに呼び分けてきた。春雨、菜種梅雨、五月雨、夕立、時雨など季節ごとの雨の呼び名の豊富さは、雨に対する関心と親しみに満ちている。時雨という言葉にも、芭蕉が好んだ寂びの趣を感じさせる。滲んだモノトーンの世界。
翠黛(すいたい)の時雨いよいよはなやかに 高野素十
京都・大原寂光院での作。翠黛とは山々が緑の黛のように見えるさまをいう。作者は、初冬なお青い山々に煙雨の如く降る時雨を「はなやか」であるととらえた。雨の合間には時折薄日が差し込んだりもする。 刻々と表情を変える山々。時雨の光景をモノトーンの世界とばかりと思っていたら、雨にかすむ山の緑の美しい世界に転換させている。陰のイメージを、陽へと鮮やかに反転させる見事さ。(IK)