- ホーム
- FROM ASIA
- Kobori のバンコクレポート
- [Kobori のバンコクレポート] タイ最北端チェンライの...
[Kobori のバンコクレポート] タイ最北端チェンライの街並み/今も残る「ラーンナー」への思い
王国発祥の地はどう時を刻んできたのか。2017年の某日、国境に広がる街を訪ねた。
遙か1000年もの昔、中国南西部に住んでいたタイ族が漢民族の膨張を受けて南下をした際に、たどり着いた地の一つがタイ最北端チェンライ県。稲作文化を持つ彼らは川沿いの僅かな土地に民族の国「ムアン」を形成し、やがて分水嶺を越えチャオプラヤー川の支流にも足場を築いていく。こうして誕生したのが現在のチェンマイからチェンライ、中国南西部にかけてを支配域としたタイ族最初の国家「ラーンナー王国」だった。それから長い年月を超え、王国発祥の地はどう時を刻んできたのか。2017年の某日、国境に広がる街を訪ねた。

▲チェンライ国際空港では民族音楽と衣装で訪問客を迎えてくれる。
チェンライ県チェンセーン郡。ここがタイ族が最初に足を踏み入れた現在のタイ王国の領域である。メコン川本流の沿岸に細くへばりつくように点在する山間の高台。こういった場所にムアンが次々と形成されていった。大河の向こう側はラオス、支流の一つルアック川を隔てては前方にビルマ(現ミャンマー)が広がる。

▲タイ・ミャンマー・ラオスの国境を示す案内板。この辺りから川下にかけての一帯がタイ族がタイに渡った地域とされる。

▲メーサイ郡にあるミャンマーとの国境橋。向こう側がタチレク市街。人々の生活道路でもある。
稲作以外に目立った産業はなく耕作地も限られていたことから、タイ族はさらなる南下を試みた。こうしてチャオプラヤー川の支流ヨム川に建国された巨大ムアンがスコータイ王朝だった。同じタイ族の王国ではあっても、現在のタイの正統史はスコータイ王朝を起源とする。北部に残ったラーンナー王国は独立と周辺国の属国化を繰り返しながら20世紀までの数百年間を細々とタイの歴史の外側で生き抜くことになる。

▲モン族が暮らす村。山の尾根沿いにある。

▲チェンライ北部を居とする山岳少数民族モン族の子供。
18世紀以降になると、山々の尾根を伝わって山岳少数民族が北部一円に流入してくるようになった。焼畑による移動耕作が特徴のカレン、モン、ユーミン、ラフ、アカといった各民族だ。カレン族はミャンマー国境に多く、タイ国内には40万人ほど。2番目に多いモン族も15万人と現在ではそれぞれ数えられている。伝統的に暮らしは貧しく、畑作のほかにはカラフルな刺繍の技術を用いての衣装や装飾品などの生産が精一杯の収入源だった。

▲伝統的な刺繍の技術を使った土産物は今も多い。
チェンセーン郡の西に隣接するメーサイ郡も同様の地域だ。タイ最北端となるこの地には、ミャンマーへと通じる一般車両も通行可能な1本の小さな橋がある。橋の向こうはタチレクの市街。国境の街では現在、多くの異民族が日々行き来をして賑わっている。

▲カメラを向けるとモン族の子供は恥ずかしそうに笑った。
西の高台にあるワット・タムパーチョムという名の寺から眼下を臨んでみた。タイ側メーサイからミャンマー側タチレクにかけて市街地が密集するように広がっている。寺の案内人によると、ここ10年で一気に交易や人の出入りが活発化し、住宅や商店などが増えるようになったという。タイ側へは多くのミャンマー人が出稼ぎに訪れ、建設業や飲食業などに従事しているという。

▲メーサイの市街地を一望する山の中腹に仏像は立つ。

▲ワット・タムパーチョム(寺院)から臨むメーサイとタチレクの市街地。
中央下のルアック川が国境線。上部がミャンマー側。
ラーンナー王国の「ラーンナー」とはタイ語で「百万の田」を意味し、それだけで当時の村の様子が分かる。タイ族が最初にたどり着いたチェンライの名も同様で、「チェン」は「城」を表し、「ライ」は13世紀にこの地方の領主となったマンラーイ王から来ていると考えられている。王国はその後、チェンマイに首都を移し栄えたが、最後までタイの正統史から認められることはなかった。現在、ラーンナー王国の面影を当地で見つけることはなかなか難しい。

▲寺院には子供の姿も多い。

▲ワット・タムパーチョムには洞窟もあり、ここでも祈りを捧げる。
歴史の表舞台からはすっかりと葬り去られたタイ族の故郷「ラーンナー」の地。名は消え去ったとしても往時の人々の暮らしは、街で見られる光景や山間に残る集落、人々の意識、さらには地名などに今も静かに生き続けている。

チェンライ県チェンセーン郡。ここがタイ族が最初に足を踏み入れた現在のタイ王国の領域である。メコン川本流の沿岸に細くへばりつくように点在する山間の高台。こういった場所にムアンが次々と形成されていった。大河の向こう側はラオス、支流の一つルアック川を隔てては前方にビルマ(現ミャンマー)が広がる。


稲作以外に目立った産業はなく耕作地も限られていたことから、タイ族はさらなる南下を試みた。こうしてチャオプラヤー川の支流ヨム川に建国された巨大ムアンがスコータイ王朝だった。同じタイ族の王国ではあっても、現在のタイの正統史はスコータイ王朝を起源とする。北部に残ったラーンナー王国は独立と周辺国の属国化を繰り返しながら20世紀までの数百年間を細々とタイの歴史の外側で生き抜くことになる。


18世紀以降になると、山々の尾根を伝わって山岳少数民族が北部一円に流入してくるようになった。焼畑による移動耕作が特徴のカレン、モン、ユーミン、ラフ、アカといった各民族だ。カレン族はミャンマー国境に多く、タイ国内には40万人ほど。2番目に多いモン族も15万人と現在ではそれぞれ数えられている。伝統的に暮らしは貧しく、畑作のほかにはカラフルな刺繍の技術を用いての衣装や装飾品などの生産が精一杯の収入源だった。

チェンセーン郡の西に隣接するメーサイ郡も同様の地域だ。タイ最北端となるこの地には、ミャンマーへと通じる一般車両も通行可能な1本の小さな橋がある。橋の向こうはタチレクの市街。国境の街では現在、多くの異民族が日々行き来をして賑わっている。

西の高台にあるワット・タムパーチョムという名の寺から眼下を臨んでみた。タイ側メーサイからミャンマー側タチレクにかけて市街地が密集するように広がっている。寺の案内人によると、ここ10年で一気に交易や人の出入りが活発化し、住宅や商店などが増えるようになったという。タイ側へは多くのミャンマー人が出稼ぎに訪れ、建設業や飲食業などに従事しているという。


中央下のルアック川が国境線。上部がミャンマー側。
ラーンナー王国の「ラーンナー」とはタイ語で「百万の田」を意味し、それだけで当時の村の様子が分かる。タイ族が最初にたどり着いたチェンライの名も同様で、「チェン」は「城」を表し、「ライ」は13世紀にこの地方の領主となったマンラーイ王から来ていると考えられている。王国はその後、チェンマイに首都を移し栄えたが、最後までタイの正統史から認められることはなかった。現在、ラーンナー王国の面影を当地で見つけることはなかなか難しい。


歴史の表舞台からはすっかりと葬り去られたタイ族の故郷「ラーンナー」の地。名は消え去ったとしても往時の人々の暮らしは、街で見られる光景や山間に残る集落、人々の意識、さらには地名などに今も静かに生き続けている。
海外情報員 Kobori 氏 プロフィール
