マタギキ熊本 村井 眞一氏(2/11)
1.神童と呼ばれた幼少時代

1955年、神奈川県の横須賀生まれです。子供のころは神童と呼ばれていました(笑)。
神奈川県は東京と比べると私立の学校が少ないですから、小学校、中学校ともに普通の公立学校に行きました。当時、中学から高校までを対象に行われ、県下の学生のほとんどが受ける「アチーブメントテスト」というものがありましたが、1番悪かった時でも4番くらいでした。1番よかったときで2番でしたね。1番はとったことがないんですよ(笑)。
高校生の時はバーの店長をやっていました。アルバイトにはまっていましたね。公立高校でわりと進学校でしたから、正直、面白くなかったんです。そのうち授業に行かなくなりました。学校のそばに歓楽街がありまして、当時で言えばスナック、今で言うところのカウンターバーみたいなお店に通っていました。父親が酒飲みで、よく晩酌の相手をしていました。だから、お酒を飲むことにあまり抵抗はありませんでしたね。もちろん今はそんなことはできないですけど(笑)。そうしたら、マスターが「昼も喫茶店形式でお店を開けるから」ということだったので、自分から名乗りを上げました。中学時代からの友達など仲間に遊びに来るように声をかけて、学校に行かずに、ほぼ毎日お店にいましたね。そのうち、オーナーから夜の営業も任されるようになって、友達にタダでお酒を振舞ったりしていましたね(笑)。
神奈川県は東京と比べると私立の学校が少ないですから、小学校、中学校ともに普通の公立学校に行きました。当時、中学から高校までを対象に行われ、県下の学生のほとんどが受ける「アチーブメントテスト」というものがありましたが、1番悪かった時でも4番くらいでした。1番よかったときで2番でしたね。1番はとったことがないんですよ(笑)。
高校生の時はバーの店長をやっていました。アルバイトにはまっていましたね。公立高校でわりと進学校でしたから、正直、面白くなかったんです。そのうち授業に行かなくなりました。学校のそばに歓楽街がありまして、当時で言えばスナック、今で言うところのカウンターバーみたいなお店に通っていました。父親が酒飲みで、よく晩酌の相手をしていました。だから、お酒を飲むことにあまり抵抗はありませんでしたね。もちろん今はそんなことはできないですけど(笑)。そうしたら、マスターが「昼も喫茶店形式でお店を開けるから」ということだったので、自分から名乗りを上げました。中学時代からの友達など仲間に遊びに来るように声をかけて、学校に行かずに、ほぼ毎日お店にいましたね。そのうち、オーナーから夜の営業も任されるようになって、友達にタダでお酒を振舞ったりしていましたね(笑)。