[愛魂 vol.17] フリーマガジンFLJ編集長 大野俊也 ~リアリズムを追求し、常に時代のエッジをとらえたクリエイトを提供するマルチプロデューサー~(1/3)
前へ | 次へ

今アジアを中心に、様々な角度から注目を集める日本のストリートカルチャー。パンクやヒップホップ、スケートボードなどの、すでに日本でも一般的に認知される“ストリート”というカルチャーは、もともと海外から入ってきたものであり、日本国内で盛り上がりを見せ始めたのは1980年後半。その始まりから現在に至るまで、媒体者でありながらにして、自らをシーンの中に身を置いたスタンスの編集方針で、常に時代のエッジの部分を掴んだ雑誌やイベントを手掛けてきたのが、大野俊也氏である。
雑誌「Fine (ファイン)」や「WARP MAGAZINE JAPAN (ワープ・マガジン・ジャパン)」の編集長を経て、新たに創刊したフリーマガジン「FLJ (エフエルジェイ)」や、大型音楽フェス「パンクスプリング」のプロデュースなど、彼の活動は多岐に渡り、常にその時代の若者たちの心を掴み、シーンを牽引し続けている。
今回はそんな大野氏の考える今のストリートシーンや、これからの雑誌メディアの在り方など、インタビューを通して彼のクリエイティブの核になるものに迫った。
実際に起きているリアルなことを記事にすることで、雑誌が人気になっていきましたね。

asianbeat(以下ab):そもそも大野さんが雑誌メディアの仕事に就いたキッカケは?
大野:学生時代は趣味でバンドをやっていたんだけど、それが仕事になるとは思わなくて。せっかく学校に通わせてくれた親を喜ばせたかったし、とりあえず大学を卒業したら就職しようって考えて。でもスーツ着たくないし、朝早起きしなくていいところがいいなって(笑)。そうなると結局マスコミってことで、いくつか雑誌社を受けたら日之出出版に受かって、ファイン編集部に入ったんです。もともと雑誌が大好きだったし、ファインも読んでたので。
ab:最初はサーフィンページの担当だったとお聞きましたが。
大野:当時はサーファーブームが終わり、その次に来てたDCブームも少し勢いがなくなってきている頃で、ファインもあまり売れてない時期。そこでサーフィンの担当になって、サーフショップをまわっているときに、大野薫さんという人に出会って。
大野:学生時代は趣味でバンドをやっていたんだけど、それが仕事になるとは思わなくて。せっかく学校に通わせてくれた親を喜ばせたかったし、とりあえず大学を卒業したら就職しようって考えて。でもスーツ着たくないし、朝早起きしなくていいところがいいなって(笑)。そうなると結局マスコミってことで、いくつか雑誌社を受けたら日之出出版に受かって、ファイン編集部に入ったんです。もともと雑誌が大好きだったし、ファインも読んでたので。
ab:最初はサーフィンページの担当だったとお聞きましたが。
大野:当時はサーファーブームが終わり、その次に来てたDCブームも少し勢いがなくなってきている頃で、ファインもあまり売れてない時期。そこでサーフィンの担当になって、サーフショップをまわっているときに、大野薫さんという人に出会って。
彼が湘南でやっているパイナップルベティーズっていう店に、今はT19をやっている大滝くんとか、スケシンとか皆集まっててね。そこで知ったのが、スイサイダル・テンデンシーズとか、ドッグタウンのスケートボード、LAのパンク映画の「ディクライン」とかを見せられて。パンクは好きだったけど、LAのパンクとかそれほど知らなかったから、すごく衝撃で。そこには自分の好きなサーフィンの世界と、パンクの世界がミックスされてて、“これって超オレじゃん!”って思って(笑)。そこからはそれに夢中になっちゃって。
ab:大野さんの中でストリートカルチャーの始まった瞬間ですね。
大野:その頃ちょうど渋谷辺りではアメカジのカッコした若者が増えてきていた。渋谷に行くと、皆ジョッパーズ履いて、“BIO”っていうフィットネス・スタジオの服を着て、ジョッパーズをソックスの中に入れてるヤツらがたくさんいて。そういうのをスナップに載せると、すごく反響があって。とにかく渋谷で起きていることとか、スケートとか、ヒップホップとか、DJカルチャーとかを雑誌で扱い始めたんだ。それは他の雑誌には載ってない情報だったし、実際に現場で起こっていることを記事にしていったら、どんどん雑誌 (ファイン)が売れてきちゃって。
ab:大野さんの中でストリートカルチャーの始まった瞬間ですね。
大野:その頃ちょうど渋谷辺りではアメカジのカッコした若者が増えてきていた。渋谷に行くと、皆ジョッパーズ履いて、“BIO”っていうフィットネス・スタジオの服を着て、ジョッパーズをソックスの中に入れてるヤツらがたくさんいて。そういうのをスナップに載せると、すごく反響があって。とにかく渋谷で起きていることとか、スケートとか、ヒップホップとか、DJカルチャーとかを雑誌で扱い始めたんだ。それは他の雑誌には載ってない情報だったし、実際に現場で起こっていることを記事にしていったら、どんどん雑誌 (ファイン)が売れてきちゃって。
1989年辺りが全ての始まり。藤原ヒロシくんや、高木完ちゃんともその時期に知り合った。
ab:海外の情報はどう入手したんですか?
大野:渋谷の現場を知ったなら、やっぱり本場アメリカを見なきゃと思って、1年も経たないうちに編集長にお願いして、LAに連れていってもらって。そこで初めてベニスビーチに行ったら、すごくラッキーなことに、いきなりスケーターのクリスチャン・ホソイとか、エリック・ドレッセンとか、スイサイダルのマイクの兄貴のジム・ミュアーに出会えてさ。全部が偶然。それから少しして日本に帰ったら、ヒップホップではビースティ・ボーイズとか、ランDMCとかが来日して、スイサイダルのようなアメリカのパンクもいっきに日本に入ってきて。パンクの世界では、いわゆる革ジャンにスパイキーヘアではなくて、スケータースタイルがいっきに増えて、ちょうど世の中の変わり目だったんだよね。それが1987年くらいだったかな。それが本当に始まりの時だったよね。その時期に当時中学生だったYOPPY (江川芳文) にモデルとして雑誌に出てもらったり、藤原ヒロシくんとか、高木完ちゃんとも知り合った。そこで繋がった人やカルチャーが、どれも止まらずに伸びて行って。
大野:渋谷の現場を知ったなら、やっぱり本場アメリカを見なきゃと思って、1年も経たないうちに編集長にお願いして、LAに連れていってもらって。そこで初めてベニスビーチに行ったら、すごくラッキーなことに、いきなりスケーターのクリスチャン・ホソイとか、エリック・ドレッセンとか、スイサイダルのマイクの兄貴のジム・ミュアーに出会えてさ。全部が偶然。それから少しして日本に帰ったら、ヒップホップではビースティ・ボーイズとか、ランDMCとかが来日して、スイサイダルのようなアメリカのパンクもいっきに日本に入ってきて。パンクの世界では、いわゆる革ジャンにスパイキーヘアではなくて、スケータースタイルがいっきに増えて、ちょうど世の中の変わり目だったんだよね。それが1987年くらいだったかな。それが本当に始まりの時だったよね。その時期に当時中学生だったYOPPY (江川芳文) にモデルとして雑誌に出てもらったり、藤原ヒロシくんとか、高木完ちゃんとも知り合った。そこで繋がった人やカルチャーが、どれも止まらずに伸びて行って。

その後1990年頃になると、ステューシーを筆頭にXラージ、ファクト、フレッシュジャイブとかのストリートファッションがいろいろ出始めて。その辺りからファッションが変わって行った気がしますね。
前へ | 次へ