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第13回 追悼文~赤瀬川原平氏を偲んで。 私の人生は赤瀬川原平以前以後。(1/3)
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先日、赤瀬川原平さんがお亡くなりになりました。
私の人生にとって、赤瀬川さんとの出会いはとてもとても大きなものでした。“赤瀬川原平以前以後”と言っても過言ではありません。芸術家として、作家として、随筆家として、さまざまな作品を世に送り出した赤瀬川さんですが、私にとっては「超芸術トマソン」に始まる“路上観察”との出会いが、決定的でした。芸術を超えた芸術が日常の日々や路上にある。私のものの見方、考え方に、赤瀬川さんの“大人の遊び”は深く深く根付いています。
20代のころノンフィクションの書籍編集者だった私が、赤瀬川さんと初めて組んだ作品が『赤瀬川原平の名画読本』(光文社)でした。1992年11月の初版発行ですから、赤瀬川さんに初めてお電話したのは、その1年ほど前のことではなかったかと思います。当時の私は、世の中にあふれた小難しい解説書に対して、なるほどそうだったのかと読者のみなさんに思ってもらえるような入門書を作りたいという想いに燃えていました。そんななか、書店で出会ったのが、発刊されたばかりの赤瀬川さんの「ルーブル美術館の楽しみ方」(新潮社)でした。ルーブル美術館を路上観察の目で見るという企画なのですが、やはりそこは画家。飾られた絵画への真っ直ぐな解説もある程度書かれていて、それがまさに私の読みたい解説そのものだったのです。
絵画鑑賞って、やっぱりこんなに楽しいんだ!そんな想いを赤瀬川さんにぶつけた企画が「名画読本」でした。
赤瀬川さんが名画と思う絵画に対して、ストレートに論じてほしい。私が赤瀬川さんにお願いしたことはそれだけでした。快く快諾してくださった赤瀬川さんと、数々の美術館や美術展を観てまわり、語りあかしました。『赤瀬川原平の名画読本』のまえがきにある「自分が金を持参して買うつもりで見る」という見方も、当時の我々がよくした見方です。赤瀬川さんと観て回った絵画は、美術書にある遠いものではなく、まるで自分の部屋に今日の夜から並ぶような存在になっていきました。
原稿執筆は、モネの「日傘をさす女」からスタートしました。執筆前日、赤瀬川さんとたしかレバニラ炒めを食べながら、街の小さな中華料理屋さんで原稿の流れを話し合いました。モネは俳句ですね。そんな結論を出して、カンヅメ(ホテルに宿泊して原稿を書くこと)になっていただいていた、御茶ノ水の山の上ホテルに赤瀬川さんは戻り、私は編集部に戻りました。翌朝、ホテルで原稿を受け取った私は、会社に戻る途中の総武線でその原稿を読みながら、涙があふれてきました。私なりに、こんなふうに赤瀬川さんはモネをまとめてくるだろうと推測していたのですが、そんな私の浅い読みをはるかに超える、素晴らしい原稿を一晩で書き上げていたからです。地下鉄有楽町線に乗り換えるころには気持ちは多少落ち着きましたが、ああこんな原稿を生涯かけても自分は書けないだろうなとも思いました。この企画を赤瀬川さんにお願いしたこと、引き受けてくださったことが奇跡のように感じられました。
私の人生にとって、赤瀬川さんとの出会いはとてもとても大きなものでした。“赤瀬川原平以前以後”と言っても過言ではありません。芸術家として、作家として、随筆家として、さまざまな作品を世に送り出した赤瀬川さんですが、私にとっては「超芸術トマソン」に始まる“路上観察”との出会いが、決定的でした。芸術を超えた芸術が日常の日々や路上にある。私のものの見方、考え方に、赤瀬川さんの“大人の遊び”は深く深く根付いています。
20代のころノンフィクションの書籍編集者だった私が、赤瀬川さんと初めて組んだ作品が『赤瀬川原平の名画読本』(光文社)でした。1992年11月の初版発行ですから、赤瀬川さんに初めてお電話したのは、その1年ほど前のことではなかったかと思います。当時の私は、世の中にあふれた小難しい解説書に対して、なるほどそうだったのかと読者のみなさんに思ってもらえるような入門書を作りたいという想いに燃えていました。そんななか、書店で出会ったのが、発刊されたばかりの赤瀬川さんの「ルーブル美術館の楽しみ方」(新潮社)でした。ルーブル美術館を路上観察の目で見るという企画なのですが、やはりそこは画家。飾られた絵画への真っ直ぐな解説もある程度書かれていて、それがまさに私の読みたい解説そのものだったのです。
絵画鑑賞って、やっぱりこんなに楽しいんだ!そんな想いを赤瀬川さんにぶつけた企画が「名画読本」でした。
赤瀬川さんが名画と思う絵画に対して、ストレートに論じてほしい。私が赤瀬川さんにお願いしたことはそれだけでした。快く快諾してくださった赤瀬川さんと、数々の美術館や美術展を観てまわり、語りあかしました。『赤瀬川原平の名画読本』のまえがきにある「自分が金を持参して買うつもりで見る」という見方も、当時の我々がよくした見方です。赤瀬川さんと観て回った絵画は、美術書にある遠いものではなく、まるで自分の部屋に今日の夜から並ぶような存在になっていきました。
原稿執筆は、モネの「日傘をさす女」からスタートしました。執筆前日、赤瀬川さんとたしかレバニラ炒めを食べながら、街の小さな中華料理屋さんで原稿の流れを話し合いました。モネは俳句ですね。そんな結論を出して、カンヅメ(ホテルに宿泊して原稿を書くこと)になっていただいていた、御茶ノ水の山の上ホテルに赤瀬川さんは戻り、私は編集部に戻りました。翌朝、ホテルで原稿を受け取った私は、会社に戻る途中の総武線でその原稿を読みながら、涙があふれてきました。私なりに、こんなふうに赤瀬川さんはモネをまとめてくるだろうと推測していたのですが、そんな私の浅い読みをはるかに超える、素晴らしい原稿を一晩で書き上げていたからです。地下鉄有楽町線に乗り換えるころには気持ちは多少落ち着きましたが、ああこんな原稿を生涯かけても自分は書けないだろうなとも思いました。この企画を赤瀬川さんにお願いしたこと、引き受けてくださったことが奇跡のように感じられました。
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