マタギキ熊本 村井 眞一氏(8/11)
7.全国1,000店舗 わが世の春

レンタル店しかやっていませんでしたが、1993年にTSUTAYA RECODES、1994年にTSUTAYA BOOK NETWORK、わかりやすく言えばレコード屋さんと本屋さんをオープンしました。ほぼ現在のTSUTAYAのビジネスの形になります。この10年間で、全国に約1,000店舗の規模となりました。この巨大ネットワークの商品部長をしていましたから、メーカーさんなどは相当無茶を聞いてくれましたよ。だって、管理系以外ほとんどの部門を兼任でやっていましたから、ほとんど時間がなかったんです。例えば、映画配給会社の方々は「あの映画まだ観てないんだよね」なんていうと、映画館を貸しきって観せてくれたこともありました。深夜12時から、私だけのために試写会を開いたり。そこで2億円近い商談が決まることもありましたからね。みなさん、相当尽くしてくれました(笑)。
あと、僕はツインピークス現象の仕掛け人です。当時、レンタル商品の主流派は映画でした。映画は当たりハズレがあるし、1回観たら終わりですよね。そこでアメリカのテレビドラマに目をつけました。「ツインピークス」というドラマはパイロット版と本編併せて全部で15巻あり、一つ観てもらえば、続きが観たくなって全部観てもらえるでしょ。
でも、日本のテレビで放送していなかったので誰も知りませんでした。監督のデヴィッド・リンチは「イレイザーヘッド」などの変わった映画を撮ることで有名な方でしたが、僕は発売されたことすら知りませんでしたね。1ヶ月ぐらい経って、たまたま観る機会があり、面白かったのでメーカーに言って10,000セット(150,000本)即座に購入しました。当時のレンタルビデオは仕入れで10,000円以上するもの(レンタルビデオは業務用なので一般の販売用と比べると高い値段設定になっています)でしたが、4,000円位で仕切るように交渉しましたが、瞬間に断られました。当時僕は血気盛んな30代、先方の部長さんは50代で、「著作権者をバカにするな。天にツバ吐くようなことを言うやつに、何本買おうが値引きはしない」と怒鳴り上げられましたね。すぐさま、メーカーの社長さんに電話して状況を伝えると常務がやって来ました。商談はスムーズに進んで、その部長さんは担当を外されました(笑)。全国のTSUTAYAに並んだわけですが、流行ったきっかけは芸能人の口コミでした。当時仲良くしていた芸能事務所の方のホームパーティーによく呼ばれていたのですが、サザンオールスターズの桑田君が来ていてビデオをあげたんですよ。そうしたら、彼が当時何本も持っていたラジオのレギュラー番組で紹介してくれまして、あっという間に流行りました。タダで宣伝してくれましたからよかったですよ(笑)。