マタギギ 大﨑洋 氏(7/13)
6.NSC「吉本総合芸能学院」の立ち上げ

当時、大阪のお笑いは西日本には認知されていましたが、「箱根の山は越えられない」という不文律がありました。ところが「THE MANZAI」や「オレたちひょうきん族」などテレビ番組をきっかけに漫才ブームが起こり、数多くの芸人たちが箱根の山を越えて活躍することができるようになりました。
僕も東京に配属されて一生懸命仕事をしました。睡眠時間が3~4時間の日々が続くぐらい必死にやりました。高熱でぶっ倒れるまでやり続けました。脇目も振らずに走り続けましたので、仕事も集まるようになり、タレントのスケジュールもどんどん埋まっていってたんです。でも、会社の方針や仕事のやり方として効果的に運営するために、僕自身が管理することができなくなったので、大阪に戻ることになりました。戻ったは良かったのですが、やることが無く、学校の立ち上げ事業の白羽の矢が立ちました。
その頃は、芸人になる方法が2つありました。1つは師匠のところに弟子入りをする。もう1つは「幕引き=劇場の進行係」で経験を積むことです。この方法だと4~5人ぐらいしか育てることができません。お笑いの時代が来ていることもあり、会社としてきちんとした学校を創って門戸を広げ、何十人、何百人の芸人を世に送り出すために養成学校(NSC)がスタートしました。僕たちは大阪や東京に事務所を持ち、芸能界のど真ん中で仕事をさせてもらっていますから、ありがたいことにモデル事務所のようにスカウティングをしたことがありません。良くも悪くも吉本興業のブランド力で生徒は集まりましたが、学校(NSC)をまかされた僕自身がもともとろくに学校に行っていませんから、何をやって良いか分かりませんし、お笑いの才能もありませんから教えることも出来ません。途方にくれましたよ(笑)。大阪の雑多な街の中にある教室の掃除ばかりやってましたね(笑)。ジャズダンスが流行っていた時代ですので、女性の方を対象にダンス教室もやっていましたから、ほこりひとつ無いように、掃除は気合を入れていました。