[愛魂 vol.24] 花村えい子 ~世界中をポップに魅了する日本発の少女マンガ~(1/3)
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人形のように大きく輝く瞳に長いまつ毛の少女。誰もが一度は目にしたことがあるであろうキュートでポップな少女漫画を描く花村えい子。
“マンガ”や“アニメ”などのジャパニーズポップカルチャーが世界中から注目されている近年。その日本の歴史の中でも、彼女は50年も前から日本の漫画界の先駆者として走り続け、デビュー以降も後の漫画家たちに影響を与えている。そして今なおその作品は国内にとどまらず海外でも発表されるなど、マンガやイラストの枠におさまらない積極的な活動を広げているのだ。
もともと漫画家を目指していなかった彼女の作品が、なぜこれだけ広く、長く評価されているのだろうか。その秘訣を探るため、彼女のアトリエにお邪魔した。その答えは、作品の奥に隠された彼女のキュートでチャーミングな人柄にヒントがあった。
漫画家になりたくてなったんじゃないから、絵が下手なんですよ(笑)
asianbeat(以下ab):花村先生が漫画家を目指したキッカケは?
花村:漫画というものがまだない頃、弟が講談社から手塚治虫先生の初期の雑誌を手に入れて、それを見て度肝抜かれたの。それまで漫画と言えば「サザエさん」とか「のらくろ」とか、ああいうのしか知らないから、何とも言えないすごい人だなぁってビックリして。でもその頃のマンガは自分の世界じゃないと思っていたし、やっぱり漫画が少ない時代だったから小説や本は沢山読んだんですよ。私は絵が好きだったし、中原淳一さんっていう少女小説の挿絵を描いていた方の絵にすごく憧れて、そういう絵が描きたくて、それで女子美行ったんですけど、結局途中で親戚に誘われて演劇を始めたの。女子美在学中に演劇研究会に出演して、演劇にのめり込んで、絵の方もおろそかになっちゃって。そこで主人と知り合ったんだけど、お芝居も恋愛も親に反対されて。学校行きなさいって。それで二人で家出しちゃったんですよ。いわゆる駆け落ちですよね(笑)。それに今みたいにバイトとかもそんなに沢山ない時代で、お芝居で食べていけないでしょ?
花村:漫画というものがまだない頃、弟が講談社から手塚治虫先生の初期の雑誌を手に入れて、それを見て度肝抜かれたの。それまで漫画と言えば「サザエさん」とか「のらくろ」とか、ああいうのしか知らないから、何とも言えないすごい人だなぁってビックリして。でもその頃のマンガは自分の世界じゃないと思っていたし、やっぱり漫画が少ない時代だったから小説や本は沢山読んだんですよ。私は絵が好きだったし、中原淳一さんっていう少女小説の挿絵を描いていた方の絵にすごく憧れて、そういう絵が描きたくて、それで女子美行ったんですけど、結局途中で親戚に誘われて演劇を始めたの。女子美在学中に演劇研究会に出演して、演劇にのめり込んで、絵の方もおろそかになっちゃって。そこで主人と知り合ったんだけど、お芝居も恋愛も親に反対されて。学校行きなさいって。それで二人で家出しちゃったんですよ。いわゆる駆け落ちですよね(笑)。それに今みたいにバイトとかもそんなに沢山ない時代で、お芝居で食べていけないでしょ?

だからドサ回りの劇団にお願いして入れてもらって、大阪の方で少しずつやってったんです。その時住んでいたアパートの一階が貸本屋で、そこのご主人が貸本漫画家さんだったんです。それで遊びに行ってて、私も絵が好きだからって自分の作品を見せたら「あんた描きなはれ」っていきなり言われて(笑)。漫画って読んだことないし、描いたことも勿論ない。なんでもいいから、自分の思うように話を作って描いてごらんって、コマ割りのひき方だけ教わって。そして簡単に絵物語を作ったら、それを持って大阪の貸本の出版社にその方が持って行ってくれて、その日のうちに原稿料を持ってきてくれたんです。あんな変なの描いて、お金もらっちゃった~! って(笑)。その後も催促がきて、“また描いたらお金貰えるの?”って感じで、アルバイトみたいなお小遣い稼ぎから、いつの間にかレギュラーになっちゃって。

ab:すごいですね。
花村:ちなみに、その頃一緒に描いていていたのが、怖い漫画描く楳図かずおさん。彼が一緒で仲良かったんですけど。そのうち光文社から引き抜きがきたんですけど、当時は東京に上京してその出版社の近くに住まないといけなかったし、まだ私はそこまでして漫画家になるつもりはなかった。ただ好きで描いてるだけでお金貰えて嬉しいなぁくらいの気持ちで。すると、主人が東京のテレビ局に呼ばれて東京にまた戻って来たら、講談社の“なかよし”から声がかかって「やりませんか?」って。でも私、それでもまだ漫画家になる気なかったんですよ。いわゆる少女小説のイラストみたいなの描きたいから断りに行ったら、「あなたは時代に逆行してる。今から漫画をやりなさい」って。これからは漫画の時代ですよって編集長に言われたんです。私自分がこうしたいとか意思が全然ないから「ああ、そうですか。はい分かりました。」って帰ってきて(笑)。それでその時からなかよしで描いて、すぐレギュラーになって、それから講談社の“少女フレンド”の両方を描いて、そのうち小学館、集英社と、2年も経たないうちに雑誌の渦に巻き込まれちゃって。
花村:ちなみに、その頃一緒に描いていていたのが、怖い漫画描く楳図かずおさん。彼が一緒で仲良かったんですけど。そのうち光文社から引き抜きがきたんですけど、当時は東京に上京してその出版社の近くに住まないといけなかったし、まだ私はそこまでして漫画家になるつもりはなかった。ただ好きで描いてるだけでお金貰えて嬉しいなぁくらいの気持ちで。すると、主人が東京のテレビ局に呼ばれて東京にまた戻って来たら、講談社の“なかよし”から声がかかって「やりませんか?」って。でも私、それでもまだ漫画家になる気なかったんですよ。いわゆる少女小説のイラストみたいなの描きたいから断りに行ったら、「あなたは時代に逆行してる。今から漫画をやりなさい」って。これからは漫画の時代ですよって編集長に言われたんです。私自分がこうしたいとか意思が全然ないから「ああ、そうですか。はい分かりました。」って帰ってきて(笑)。それでその時からなかよしで描いて、すぐレギュラーになって、それから講談社の“少女フレンド”の両方を描いて、そのうち小学館、集英社と、2年も経たないうちに雑誌の渦に巻き込まれちゃって。
何が何だか分からないうちに漫画家になっちゃって。だから、漫画家になりたくてなったんじゃないから下手なんですよ。本当に自分で漫画下手だなぁって思うんだけどね(笑)。けど何故か知らないけど仕事は増える一方でした。
土壇場まで来ると、不思議とアイデアが出るの。
ab:50年近く漫画家として活動している中で、常にこだわっていること、心がけていることは?
花村:とにかく、締め切りを守ること。なんとか間に合うところまで仕上げてあげたいなって。と言うのも、昔連載で週刊とか月刊をいくつも持ってた時に、締切遅れちゃってすごい迷惑かけたことがあって。その時の印刷所の社長さんがわざわざ編集部まで来て、夜中まで待ってて、ギリギリに作品ができたことがあって。その時、編集長にお酒一本持ってお詫びに行ったんですよ。そしたら「花村さん、僕らはいいんだよ。だけどね、製本所の人たちが皆寝ないでね、その作品一本の為に原稿がいつ来るかいつ来るかって待ってたんだ。それが気の毒でね。」って言われて。
もう頭ガーンと叩かれたような感じで。もう決してそういう思いをさせてはいけないなって。それからは、なんとか間に合わせられるようにやってますね。
ab:最大の作品枚数はどれくらいですか?
花村:とにかく、締め切りを守ること。なんとか間に合うところまで仕上げてあげたいなって。と言うのも、昔連載で週刊とか月刊をいくつも持ってた時に、締切遅れちゃってすごい迷惑かけたことがあって。その時の印刷所の社長さんがわざわざ編集部まで来て、夜中まで待ってて、ギリギリに作品ができたことがあって。その時、編集長にお酒一本持ってお詫びに行ったんですよ。そしたら「花村さん、僕らはいいんだよ。だけどね、製本所の人たちが皆寝ないでね、その作品一本の為に原稿がいつ来るかいつ来るかって待ってたんだ。それが気の毒でね。」って言われて。
もう頭ガーンと叩かれたような感じで。もう決してそういう思いをさせてはいけないなって。それからは、なんとか間に合わせられるようにやってますね。
ab:最大の作品枚数はどれくらいですか?

週刊1本と月刊2本くらいと、その間に読み切りが入ったり、イラストが入ったりするので月に250枚くらい描きますね。1本皆が仕上げしてる間に次の作品に取り掛かるんです。オリジナルをやってる時はストーリーってそんな簡単に浮かばないでしょ? どうしようどうしよう…絵に入らないともう日にちがないって、土壇場まで来ると不思議とアイデアが出るのね。なんか神様が助けてくれてるみたい(笑)。
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